病院紹介

病院の歴史

須賀川医学校

 当院は、明治5年当地方の先覚者たちにより近代医学導入のため創立されました。明治5年当時に開設された病院は、東京以外に全国で2、3か所という時代で、その名は全国に知られ、岩倉具視公や木戸孝允公の巡視を受けたという記録もあります。
 また、明治6年には院内に須賀川医学校が併設され、全国から医療を志すものが集まりました。医学校からは、稀代の政治家「後藤新平伯」をはじめ数百人の名医、名士を輩出しました。

後藤 新平 (1857年~1929年)

後藤 新平

 後藤新平は幕末1857年(安政4年)6月4日、仙台支藩・水沢藩の藩医の子として生まれました。新平の家は蘭学者、高野長英の生まれた分家筋にあたり、母利恵の父は留守家医師・坂野長安で、新平が医療を志した経緯はこの辺にあるのかもしれません。
 明治4年15歳で出郷し、明治7年18歳で当地の須賀川医学校に学びました。青雲の志を抱いて2月に入学した新平は、寝食を忘れるほどの猛勉強をはじめ、4月と5月には理学と化学の試験に合格、10月には解剖学と原生学の試験にも合格し、翌年の1月には2等本科上等生に進級しました。そして薬剤学、治療学、病床実験の科目に手をつけるほどの驚異的な進歩ぶりをみせたのです。学生でありながら、内外舎長(医学校の寄宿舎には、内舎(17歳から25歳までの医学生を収容)と外舎(管内の開業医から選抜された官費の研修生を収容)があり、その寄宿舎の取締役)に抜擢され、さらには見習い医員として患者の診察にも当たっていました。新平の性格は細心にして大胆、慎重にして果断、しかも直観力に富み、先輩の医師が診断に迷っている難病の場合でも直裁明快に診断をくだし、いつの間にか「後藤の見立ては間違いない」という定評さえたつようになりました。
 明治9年8月、名古屋にある愛知県病院の招へいに応じ多くの知人や友人の見守るなか、須賀川の地を後にしました。
 その後、曲折に富み波乱に満ちた新平の生涯のなかで、台湾総督府民政長官、初代鉄道院総裁、東京放送局(NHKの前身)初代総裁、東京市(現東京都)長、内閣閣僚などを歴任。71歳でこの世を去りました。後藤新平のあだ名は<大風呂敷>、その由来は、その着想と発言がつねにケタはずれであったためです。エピソードとして、大正12年9月1日関東大震災が起こり東京市は壊滅的な打撃を受けました。内務大臣となった新平は、荒廃した街にとてつもなく道路幅の広い復興構想の図面を作り上げます。今の皇居前、内堀通り、霞ヶ関通り、靖国通り、青山通りなどがそれです。この図面を見た他の議員は、「後藤の大風呂敷きが始まった」と、からかったそうです。しかし、新平は100年後の帝都はこうでなければならないと信念を貫きました。まさに新平の先見の明には脱帽です。

主な経歴


(年齢)
経歴など
安政4年 陸中国胆沢郡塩釜村(岩手県水沢市)に生れる
明治6年
(15歳)
福島第一洋学校
明治7年
(16歳)
須賀川医学校入学
明治9年
(19歳)
愛知県病院
明治10年
(20歳)
大阪陸軍臨時病院
明治14年
(24歳)
愛知県病院院長
明治15年 板垣退助を治療
明治16年
(26歳)
内務省衛生局
明治23年
(32歳)
ドイツ留学
明治25年
(35歳)
帰国 内務省衛生局長
明治26年 相馬事件で拘引、収監 
非職
明治27年 出獄、無罪
明治28年 臨時陸軍検疫部事務官長 内務省衛生局長
明治31年
(40歳)
台湾総監督府民生長官
明治39年
(49歳)
満鉄総裁
明治41年
(51歳)
第2次桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁
明治45年 第3次桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁
大正5年 寺内内閣内務大臣兼鉄道院総裁
大正7年 寺内内閣内務大臣兼鉄道院総裁
大正9年 東京市長(~大正12年)
大正10年 8億円計画
大正11年 少年団日本連盟(現ボーイスカウト)総裁となる
大正12年
(66歳)
関東大震災、第2次山本権兵衛内閣内務大臣兼帝都復興院総裁
大正13年 東京放送局総裁
昭和4年
(71歳)
午前5時30分逝去 
特旨をもって正二位に叙せられる

「後藤新平」郷仙太郎著書(学陽書房)